今この瞬間の延長として、来るかもしれない未来があるとすれば、
自分の未来は自分の手で切り拓ける、ということになる。
過去は、もう存在しないが、それらも自分の意思と選択で作られたものと言える。
全ては偶然の産物と思うのだが、多少は自分で作れるものらしい。
だとすると、
今を精一杯やってみれば、来るかもしれない明日において、良い方向へ向くかもしれない。
だから、頑張れ、というのであろうか。
いずれにしても、過去はもう存在しない。
存在するのは、正確には「今だけ」で、明日は来るかもしれないが絶対にくるという保証はどこにもない。
ただ、過去も今も未来も、すべて自分の行ったことのつながりなのだ。
今を積み重ねた先のイメージを思い描いておくことが大切だ。
それがありがたいことかどうかはわからないが、明日が来るのならば、どうせ死ねないのなら、明るくやったほうがいい。
いちばん困るのは、死ねないし、つまらん毎日しかなかったら、それは実に不愉快な人生だ。
いつ死んでもいいように、日頃から整理整頓、心を整え、さわやかな気持ちでいること。
欲を一つ捨てれば、悩みも一つ減る。
仕事は利益を追うだけが仕事ではない。と最近つくづく思う。
仕事とは、奉仕であり、人に喜びを与えることだ。
それだけのことだ。
人の命はしょせん何十年かで終わる。
私の全ては私の死ととも終わる。そこには何もない。
成功も失敗も、語るに足らず。
確実なことは...
廓然無聖。
その一言に集約される。
私はカンペキな無神論者であり、無宗教であるが、お釈迦様の残された言葉だけは信じている。
仏教で言えば、商売に成り下がった今日の仏教には全く興味も畏怖の念もない。
- MK
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