2016年10月4日火曜日

なぜ自分の命は生き残ったのか?(副題:死ぬ間際において重要なものは)

急性汎発性腹膜炎
acute generalized peritonitis


「あと1日遅かったら、手遅れだったでしょう…」

淡々と語られたM先生の言葉は、
手術の状況を知らされて、決して大げさな表現ではないことを知った。


J病院にかつぎこまれて早々に、M先生から3つの選択肢の説明があった;
1つは縦方向の開腹、
1つは横方向の開腹、
そして最後に、開腹をしない腹腔鏡手術。

後で知ったことだが、このところG大学病院が腹腔鏡手術にこだわり何人も失敗している例が問題視されていた。
「現代ビジネス」誌でも

死亡者続出!体への負担は少ないが、命の保証もない「腹腔鏡手術」はこんなに危険です(上)
という記事が出ている。

Google で検索すれば、その危険性を指摘する見解はいくらでも出てくる。
たぶんそれを意識して、M先生の説明は、
「我々は方法論には何もこだわっていません。最優先に考えていることは、如何に患者さんの身体へのダメージを最小限にくい留めて手術を完遂するか、です」というものだった。
そしてそれが腹腔鏡手術だった。

上述のように世間で問題視されている中で、この手術方法を躊躇なく選択をする度胸には、後日、感嘆した。それはよほどの自信とそれなりの覚悟が無ければできないことだと思う。






あの晩...
もしあの激痛が5時間早く来ていたら、自分は朝までもたず、気絶し、そして絶命していたわけだ。
それが奇跡的に、意識が朝までもってくれた。

最初から119番はするつもりは全くなかった。その理由は、急患で運び込まれるのは、どこへ運ばれて、どのような対処をされるのか全くわからず、的はずれな嫌な経験しかないため、どんなに苦しくても119は呼ばず、朝を待って、前々日に点滴および血液検査をしてくださったK先生の病院へ行くことしか頭になかった。まず、あの苦痛の中で、意識も朦朧としてる中で、よく8時間ちかくも留まったものだと我ながら思う。

それにしても、あと5時間、あの激痛が始まるのが早かったら、朝までには気絶しそのまま絶命していたはずだ。そのギリギリのタイミングが最初の奇跡だったかもしれない。


そして、翌朝、K先生の病院が開くのを待って、タクシーで運んでもらった。
前々日の血液検査の結果がちょうど上がってきており(前日は祝日だったため)、
それと照らし合わせながら私の様子を見て、K先生はすぐにどこかへ電話をかけ始められた。


「腹部の張り具合。炎症反応を示す CRP値は正常値の数百倍。どう考えても腹膜炎の可能性が高い。最悪、"急性汎発性腹膜炎” の懸念がある。だとすると一刻の猶予もない」

これがK先生の判断で、電話の先は内科外科で評価の高いJ病院。そこに腕のよい友人のM先生が勤務されている。
二入の間にホットラインがあるのだろうか。すぐにつながって、K先生はJ病院への紹介状を書きながら、M先生に状況を説明し、手術体制をすぐにとって待機してほしい旨を依頼されていた。


自分はぼんやりする頭の中で、「ああ、手術か…」と考えならが、K先生の判断だからすべて任せよう。と単純に思った。まさか、それほど危機的な状態だとは自分では認識がなかった。

このK先生の判断と素早い手配が二つめの奇跡だったように思う。

おりしもお盆休みを控えた週末で、本来はどこも急患をいやがるのは暗黙の常識だ。そんな時期に、こんな手配をあっという間に整えてくださったK先生の判断力と力量には恐れ入った。(自分はそうした人脈があるということを自慢したいのではない。事実を記録しておきたいだけだ)


そして自分はJ病院へ運ばれた。そのころには熱が40度近くになっており、意識は完全に朦朧としていた。これくらいになると視界さえもぼんやりしてくることを知った。まるで CG 加工でも施したかのように、M先生の顔がかすかに見えるだけで、それ以外は霧もやのようにしか見えない。それでも腹部の苦痛だけは容赦なく、自分はうめいていることしかできなかった。


すぐにストレッチャーに乗せられ、M先生からすぐに上述の説明があり、承諾書にサインしたのだと思う。記憶がない。しかし後日渡されたコピーには確かに自分の筆跡のサインがあった。


手術を実施するにはもうひとつ、家族の同意が必要だと言われ、Kの連絡先を書いた紙編を渡した。その後のことは記憶にない...


覚えているのは、その後、オペルームへ入った瞬間に目に入った5〜6名のオペチームの皆さんの姿。


手術室に入る前から点滴が施され、手術室に入った瞬間に全身麻酔が注入されたのだろう。
輸血のための血液型検査の結果を待つ時間も惜しかった、とはM先生の後日談。
それほど逼迫していたらしい。

それにしても、その突破力には恐れ入る。
このM先生の手術方法に対する判断力と突破力、これが3つめの奇跡だったように感じる。


しかし、実際は、M先生の予想通りには行かなかったらしい。
腹腔鏡手術はヘソからカメラやオペ器具のついたチューブを入れる。
M先生がそこで見たものは、虫垂が破裂し、膿と細菌に溢れ、侵された腹膜、そして、ところどころ破れた腸と、それらから流れ出た胃液、体液、食べ物… そうしたものが充満した「極めて稀に見る」最悪の状態だったらしい。


「このままでは、人手が足りない。除去が間に合わない...」
そう判断したM先生は仲間の腕利きのやはり内科外科のK先生に割り込み応援依頼をかけ、こちらの手術に加わってもらい、チームを再編成されたらしい。

後日、手術記録のコピーが渡されたが、そこには、ドクター(助手除く)だけで9名の名前が記載されていた。


「ギリギリの選択でした」とは、援護参加してくださったK先生の言葉。
「開腹するか、このまま続けるか…」


「開腹は避ける。この方法で行く」というのがその時の決断で、そのために、ドレナージュ設置が開始された。ドレナージュとは文字通り「排水管」のことである。点滴をガンガン流し、洗い流して、そのチューブから外へ排出する。そうして腹部内部を洗浄し、その間に、ところどころ破れた腸を縫合していく...


最初は2本のチューブが設置されたが、それでは洗浄が間に合わないことがわかり、ここでまた岐点が訪れた。

「開腹やむを得ず…」という意見も出たらしいがK先生の判断は、「チューブの追加」だった。腹部に2本のチューブが追加して差し込まれ、ドレナージュ(排出)用のチューブは合計4本になった。


経過を見守る… すると、今度は徐々に改善が確認された。それをもって、「この態勢を維持」が決定された。あとは、時間との戦いだ。


しかし、途中、血圧は何度も70を切り、呼吸も止まったりで、予断を許す状況ではなかったらしい。(手術後数日間声が出なかった。それを伝えると、何度も呼吸が止まってしまうから相当量の酸素を強制的に送り込んだ、だから気管支がちょっとかすれたかも、とのことだった)


こういうのを「生死の境をさまよう」と言うのだろうか。


ともあれ、このK先生の判断と強い意思、そして卓抜したオペ技術、これが4つめの奇跡だった。


そのような「最強の」緊急外科チームをもってしても、ドレナージュ設置まで3時間。その後数日かけて私の内蔵はきれいに洗浄され、腸は縫合された。




「あと1日遅かったら、手遅れだったでしょう…」



そこまで悪化し、ここへ来なければ、あの早朝もしくは、翌日に死んでいてもおかしくなかったわけだ。

「なぜ、こんなになるまでガマンしていたのですか?普通では考えられない」
その答えはここでは割愛する。

逆に自分は尋ねた。「そこまでなるまでにはどれくらいの日数がかかるものなんでしょうか?」
答えを聞いて驚いた「まず、4,5ヶ月は間違いなく、かかっているでしょう… だから不思議なんです、あなたがどうやってその間、耐えてきたのか… そしてそこまでさせた要因は何だったのか...」



手術中の記憶は、もちろん、何もない。
しかし、全身麻酔が切れだしたころ、さまざまな夢を見たことは覚えている。


不思議なもので、過去、思い出したこともないような場面や景色をいくつも見た。
大好きだった母方のばあちゃんも出てきた。
すでに亡くなっている両親はもちろん、姉、弟、離婚して相手方の籍に入った一人息子… 血縁以上の友人F。日頃自分をフォローしてくれているK。
不思議なのは、だれも何もしゃべらない。ただ、皆、微笑んでいるだけなのだった。


へ理屈的に考えると、
「三途の川」の淵まで行って引き返してきた、そんな感じがする。


今回のこの出来事を自分の中でどう整理すればいいのか?


確率的には死んでいた確率のほうがはるかに高い。
あの4つの岐路のどれか一つでも失敗していたら、今自分はここにはいない。
それぞれが 1/2 の確率であったとしても、2の4乗で、生き残った確率は 1/16 になる。



ただ、確かに苦しかった。あの8時間は、本当につらかった。拷問のようだった。「苦しい」という、うめき声が何回出たことか。しかし、もしあのまま、あと5時間「苦しい」とのたうち回っていれば、気絶して、そのまま死んだのだ。


死というものは意外とあっけないものだと知った。

あれくらいガマンすれば死ねるのか、とも言える。



自分は自分の命に連綿とする気持ちは昔から、無い。しかし、
陣頭指揮をとって、この生命を救ってくださったM先生には心から感謝している。
チームの先生方、アシスタントの方々にも心から感謝している。
入院棟で看護してくださった看護師のみなさんにも心から感謝している。
病院食が口に合わず、差し入れ担当をしてくれたKにも心から感謝している。

なにより、M先生をアサインして緊急オペをねじ込んでくださったK先生は命の恩人と言える。
なぜなら、あの時、119番や、過去に急患で対処してもらった病院へ行っていたら、たぶん、インターンの皆さんの実験台にされて、命を落としていたように思えてならない。よくても開腹オペで、後日、辛い日々が待っていたはずだ。



M先生の、あの柔和な外見からはとても想像できない、ここ一番の度胸と突破力...
本当の「プロ根性」を見た思いだ。



さて、


一度亡くした命。幸運にも蘇った命。如何にせん。



少なくとも、「生き方を変えよ」という暗示に思える。

これまでのMKは死んだのだ。

新しいMKを作らねばならない。

それはどんな形なのだ。

一度死んだのだから、もう怖いものは何も無いはずだ。




生死の境をさまよった日。

新しい命が蘇った日。


何が人の生死を分けるのか?
奇跡の積み重ねで助かった命。

なぜ、奇跡は4つも連鎖したのか?

なぜ、自分は生き残ったのだろうか...



すべては偶然のなせる技なのか?

だとしたら、この、日々の苦悩には何の意味があるのか?


人生観が大きく変わった。


あれ以来、朝、目がさめると、「今日が最後の日かもしれない」と思う。
そして、そう思うと、つまらないことでの焦燥感や怒り、ねたみ、などの負の気持ちが不思議と消えていき、「今できることは何か」に集中できるようになった。本来が合理主義なのだが、それに拍車がかかって、感情が無くなった人間のようだ。




明日が必ず来るという保証など、無い。

過去は捨てられた。もう存在しない。


だとすると、

今、この生きている瞬間瞬間にできることを、粛々と、やるしかないではないか。

故人いわく、

「人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ。それだけだ」(サマセット・モーム:「人間の絆」より)


決して、投げやりになったのではない。
良い意味で、物事への執着心がなくなった。


自分はもう十分、自分の人生を生きた。すべて自分で判断し行動してきた。もう十分堪能した。未練は無い。

まして、死ぬ間際においては、たとえ、どんなにお金があろうと、豪邸があろうと、名声があろうと、名誉があろうと、何の意味もないことを、身をもって知った。


死ぬ間際において重要なものは、たぶん… 楽しかった思い出だけだ。
それは友であり家族であり恋人であり冒険であり旅であり...

生きるということは、たぶん、その程度のことだ。

案ずることはない。心のおもむくままに、生を謳歌すればよいのだ。


2016/09 某日
- MK












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